新しいツールを導入したほうが効率的なのに、なぜか現場が変えたがらない。今のやり方に不満はあるはずなのに、いざ新しい提案をすると反対されてしまう。
ビジネスや日常生活の中で、このような課題に直面したことはありませんでしょうか。人間はなぜ、客観的に見て良いと思われる変化であっても拒んでしまうのでしょう。
実はこの現状維持に固執する姿勢は、人間の根深い心理バイアスである保有効果によって引き起こされています。今回は、現状維持の壁を打ち破って人を動かすための具体的なアプローチを書いていきたいと思います。
変化を拒む三層構造
なぜ人はこれほどまでに変化を嫌うのか。行動経済学では、人間の心の中に損失回避性、保有効果、現状維持バイアスという三層の因果関係(ピラミッド構造)が存在していると考えます。これらは個別の現象ではなく、一つの根源から地続きでつながっている心理現象です。
① 根源にある心理:損失回避性
すべての出発点はこの損失回避性という強力な心理特性です。人間は、何かを得る喜びよりも何かを失う痛みの方を圧倒的に強く感じ、失う痛みは得る喜びの約2.6倍も強く感じられることが分かっています。つまり、1万円をもらう喜びと1万円を失う痛みを比べたとき、脳は失う方を2.6倍も重大な事件として受け止めるってことです。
② 所有がもたらす評価の歪み:保有効果
この損失回避性が特定のモノや権利に対して働いた状態を保有効果と呼びます。人間は、あるモノを実際に自分のものにした瞬間に、それを手放すことを損失だと認識するようになります。手放す痛み(損失)は手に入れる喜び(利得)の2.6倍ですから、自分が持っているモノに対して持っていない人よりも2倍以上の高い価値を無意識につけてしまうのです。
行動経済学者のリチャード・セイラーらが実施した有名な実験があります。ある大学の学生をランダムに、ロゴ入りマグカップをもらった売り手と、何ももらっていない買い手の2つのグループに分けました。それぞれにマグカップを手放してもいい最低金額(売値)と、買ってもいい最高金額(買値)を尋ねたところ、買い手の支払ってもいい金額の中央値は2.87ドルだったのに対し、売り手の要求した金額の中央値は7.12ドルでした。 実際にマグカップを所有しているというだけで、売値が買値の2倍以上になるという現象が起きたのです。人間は一度手にしたものを、直感的に実態以上の価値があるものだと思い込んでしまいます。
データソース:Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem (Kahneman, Knetsch, & Thaler, 1990)
③ 行動の停滞となって現れる:現状維持バイアス
保有効果が現在の環境、いまの仕組み、これまでの習慣という目に見えない権利にまで拡大した結果、最終的に現れる行動が現状維持バイアスです。 私たちは、今のやり方や環境を自分がすでに保有している大切な財産とみなしています。そのため新しいやり方に変えることは、今ある財産を失うリスク(痛み)を伴う行為に見えてしまうのです。これが、客観的に見てどれほど優れた提案であっても、人が本能的に拒絶してしまうメカニズムです。
データソース:Status Quo Bias in Decision Making (Samuelson & Zeckhauser, 1988)
人はなんでこんな特性を持ってるの?
現代では足枷のように見えるこのバイアスですが、人類の進化の歴史を振り返るとかつては生き残るために絶対に必要な生存戦略でした。
原始の時代の人類は常に飢餓や天敵の脅威と隣り合わせで、食糧や安全な寝床は極めて希少であり、それらを失うことはダイレクトに死を意味していました。 もし、原始人があっちの森に行けば、もっと美味しい木の実があるかもしれない(不確実な利得)という期待だけで、いま確保している安全な寝床や手元の食糧(確実な保有物)を軽々と手放して変化を選んでいたら、環境の変化に対応できず全滅していた可能性が高いでしょう。
つまり、未知の新しい利益を追い求めるよりも、今ここにある確実な生存資源を守り抜くこと(損失の回避)を最優先する個体ほど、生存確率が高かったのです。私たちの脳には、何万年もの過酷なサバイバルを生き抜いた祖先たちの失うことを過剰に恐れ、現状にしがみつくという防御プログラムが、今なお色濃く刻まれています。現代のオフィスで新しいシステムへの移行を拒む社員の心理は、この原始的な生存本能が誤作動している状態だと言えます。
保有効果を打ち破る3ステップ
では、この強力な原始のプログラムを取り除き、人に行動を起こさせるにはどうすればいいのでしょうか。ここでは3つの方法を段階を追って見ていきます。
ステップ①:スイッチングコストを下げる
人が新しい選択肢に切り替えるとき、天秤にかけているのはツール自体の性能差ではなく、現状から移行する際にかかるスイッチングコスト(移行の負担)に対して、2.6倍以上の圧倒的な利益を感じられるかどうかです。
しかも、その利益は提案する側がアピールする機能ではなく、相手自身が主観的にこれは自分にとって価値があると実感できるものでなければ意味がありません(これを知覚された利益と呼びます)。まずは、相手が感じている負担を以下の3つのカテゴリーから洗い出します。
金銭的コスト
初期費用や、失敗したときに無駄になるお金の不安。心理的コスト
慣れたやり方を手放す抵抗感や、失敗して評価が下がる恐怖。手続き上のコスト
新しい操作を覚える労力や、設定・移行に奪われる時間。新しい選択が間違っていた場合のトラブル対応にかかる時間もここに含まれます。
データソース:Loss Aversion in Riskless Choice: A Reference-Dependent Model (Tversky & Kahneman, 1991)
例えば顧客に競合他社の商品からの乗り換えを提案する場合、自社商品の機能が少し優れているというアピールだけでは、顧客の保有効果(今の取引先への愛着や慣れ)に負けてしまいます。 営業担当者は、顧客が乗り換え時に感じる社内手続きの面倒くささ(手続き上のコスト)やもしトラブルが起きたらどうしようという不安(心理的コスト)を徹底的に先回りして書き出します。その上で、移行手続きはすべて弊社が代行します、万が一の際の返金保証をつけますといった提案を行い、顧客の主観的なスイッチングコストを徹底的に下げることで、初めて2.6倍の天秤を動かすことができます。
ステップ②:何もしないことのコストを可視化する
人間は、今すぐ生活や業務が破綻しない小さな不便に対しては、何もしないことのマイナスが意識されにくいため現状維持を選びがちです。
あなたが骨折をした時と軽い捻挫をしたときのことを考えてみてください。骨折は激痛を伴う大怪我なので放置できずにすぐ病院へ行き、積極的に治療を行うでしょう。一方で捻挫は、今すぐ歩けなくなるわけではないため通院の手間や費用(コスト)を嫌って放置してしまうのではないでしょうか。結果として骨折のほうが完治が早く、捻挫は痛みが長引いてしまうのです。
動かない相手に対しては、この捻挫の痛みを放置し続けることの長期的な総損失を、具体的な数値(時間やお金)で突きつけ、何もしないことの方が圧倒的に損であると知覚させる必要があります。
部下やチームメンバーが古い非効率な業務フロー(例:手作業でのデータ入力)に固執している場合、単に新しいシステムを使いなさいと指示しても目先の操作を覚える面倒くささが勝つため浸透しません。 マネージャーが行うべきはその手作業が1回につき数分だとしても、チーム全体で1年間続けた場合、合計で何百時間という莫大な時間がドブに捨てられているかを計算して見せることです。捻挫の放置がいかに大問題であるかをビジュアル化することで、部下は今のやり方を続けることの非効率を実感し、変化を受け入れるようになります。
ステップ③:変化ではなく本来の姿へのアップデートとして物語を伝える
現状がそこそこ良い状態である場合、人はその居心地の良さに満足してしまうためさらに素晴らしい状態を目指してリスクを取ることが難しくなります。
この現状維持を打破する最強の手法が、提案の切り口を未知の新しい変化として伝えるのではなく、過去の良かった状態に戻る、あるいは本来あるべき権利や姿を取り戻すという物語に書き換えることです。人間は変化を嫌いますが、失ったものを取り戻すためなら損失回避の心理が働いて喜んで行動を起こします。
データソース:Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness (Thaler & Sunstein, 2008)
この手法は、社会的な大規模マーケティングや政治の戦略で極めて強力に機能します。 2016年のイギリスのEU離脱を巡る議論において、離脱派は未知の新しい国づくりを訴えませんでした。代わりに彼らが掲げたのは、Take Back Control(主権を取り戻せ)というスローガンで、「イギリスは毎週多額のお金をEUに支払っている。そのお金を国内の医療サービス(NHS)に使おう」と主張したのです。 これにより、デフォルト(本来あるべき現状)の定義をEUから独立している状態へと人々の脳内で書き換え、EUに留まること自体が本来持っている富や主権を失い続けている損失であると知覚させることで、見事に過半数の支持を獲得しました。
また、アメリカ大統領選の時にトランプが掲げたMake America Great Again(アメリカを再び偉大にする)も全く同じ構造です。相手を動かすには、物語をアップデートの形に書き換えることが有効なのです。
まとめ:Greatの敵はGoodである
損失回避性から生まれ、保有効果によって強固になり、現状維持バイアスとして現れる人間の心理は、原始時代から続く強力なサバイバルプログラムです。そこそこ良い現状に満足している人や組織を動かしたいときは、新しさや機能の優位性をアピールするのではなく、相手のスイッチングコストを分解し、何もしないことの長期的な損失を可視化し、物語の枠組みを変えることが不可欠です。
あなたが周囲の変化を促し、現場の課題を解決したいと思ったときは以下の方法を試してみてください。
変えてほしいと思っている対象(顧客や部下)が、変化によって感じる金銭的・心理的・手続き上の負担をすべて書き出す
相手が今のやり方を続けた場合、1年間でどれだけの時間やお金、機会を失うことになるのか、具体的な総損失の数値を計算する
提案のプレゼン資料や言葉の切り口を、新しいことへの挑戦から本来あるべき効率的な姿へのアップデート(奪われているものを取り戻す)という表現に書き換える
経営学者のジム・コリンズは、世界的ベストセラー『ビジョナリー・カンパニー』の中で「Good is the enemy of Great(良きは偉大なりの敵)」と書いています。そこそこ良い状態(Good)に満足してしまうと、現状維持で終わってしまい、真の卓越や偉大さ(Great)に到達できないという深い洞察ですが、これらの手法を駆使することでGoodにいる人をGreatに変えることができるかも知れません。かも。